ネットは自助グループではないのか

・日本の障害者のケア環境の一つに自助グループというものがある。
自助グループとは、当事者同士が集まってお話するところである。
・当事者の範囲は同じ病気という意味で、結構、同じという要素が重要になる。
・自助の可能性としては、地域の障害への理解とともに啓発で社会を変えていける(という名目になっている)
・自助の不可能性としては、当事者のイデオロギーなりローカリティが全体化するとき、マイノリティ同士の対立を生んだりする構造がままある。→たとえば、青い芝の会の 母性VS脳性まひ者
自助グループはたびたびNPOと間違われるが、実はまったく違う。自助の場合、NPOみたいな明確な目的意識はない、あるのは個々人の背負っている病や社会的障害からのリカバリーである場合がほとんどであとはゆるい連帯みたいなものがあるだけにすぎない。(アルコール依存症の団体という例外はあるが、AAにしたところで各々の目的はアル中からの回復という超個人的なものである)

大まかに自助グループというものはこんなものだという理解のうえでネット文化が自助グループ化しているという実態を描き出す。



・日本の障害者のケア環境の一つに自助グループというものがある。
自助グループとは、当事者同士が集まってお話し相互援助する場である
・当事者の範囲は同じ病気という意味で、結構、同じという要素が重要になる。
・自助の可能性としては、地域の障害への理解とともに啓発で社会を変えていける(という名目になっている)
・自助の不可能性としては、当事者のイデオロギーなりローカリティが全体化するとき、マイノリティ同士の対立を生んだりする構造がままある。→たとえば、青い芝の会の 母性VS脳性まひ者
自助グループはたびたびNPOと間違われるが、実はまったく違う。自助の場合、NPOみたいな明確な目的意識はない、あるのは個々人の背負っている病や社会的障害からのリカバリーである場合がほとんどであとはゆるい連帯みたいなものがあるだけにすぎない。(アルコール依存症の団体という例外はあるが、AAにしたところで各々の目的はアル中からの回復という超個人的なものである)

ふと、コレだけ見てネットの民なら、「ふーん。自助グループって結局、掲示板、ブログ、SNSフェイスブックとどう違うの?」と突っ込みがはいるだろう。

そう。そのとおりなのだ。自助文化とネット文化はとても相性が良い。それはコミュニケーションが何かを生み出すという契機を、似たもの同士が集まって生み出すという点に求められる。

ピエール・リヴィエールの犯罪について

この人本は、フーコーの中でも絶版だが非常に優れた著作である。

ピエール・リヴィエールはフランスの農夫だが、この人は家族全員を殺害した。しかしこれが、中世の法的システムの中で様々な受け捉え方をされていくが、司法は、極悪犯罪人とよみ、医師は精神錯乱人 もしくは、酌量の余地があるなどと読んだ。

一つのテクストから、このような多元的な読み方をするのはさまざまな立場の人たちがさまざまな自身の視点に立脚して切り取る。

まぁそんなことは当たり前だろう。しかしこの本の良さは、そんな当然のことをいいたいのではなく、「なぜ、本人の書いた手記が裁判の争点になったのか?」このようなあり方がどうして生まれたのか? という裁判という社会制度の前提を問う本なのだ。

そして、面白いところはこのようなまなざしの誕生によって観察者側(聴衆者側)を鏡として自らのうちにピエールリヴィエールに対して犯した罪に対して規律化させていく。そういう作用にあったとフーコーはいう。

あるテクストをまなざすとき、どういう土俵から観察するのか、そういう土俵がどう成立しているのか。そういうことを考えるときに最適な著書だ。

もちろんそれは、歴史学的テクストだけではなく、インタビュー調査にもいえるだろう。

日本もいずれこうなるのかな…

米国の露出男、「私は性犯罪者」Tシャツ着用の判決

 [ニューヨーク 3日 ロイター] 米デラウェア州で、少女に自分の局部を露出して見せたとして有罪判決を受けた69歳の男が、「私は性犯罪者」と書かれたTシャツを着用するという珍しい判決を裁判所から受けた。検察当局の関係者が明らかにした。
 園芸業を妻とともに営むこの男は、仕事中に10歳の少女に対して自分の局部を2回露出して見せたとして、60日間の実刑に加えて、出所後1年10カ月間は仕事中に「私は性犯罪者として登録されています(I am a registered sex offender)」と書かれたTシャツを着用するという判決を受けた。
 この検察関係者はロイターに対して、このような風変わりな刑罰が科された背景には、園芸の仕事にたずさわっている間に子ども達に再び局部を露出して見せるのではないかという懸念があるため、と説明した。
 この男は、1976年から少なくとも10回にわたって子ども達に対して局部を露出したとして有罪判決を受けており、「強迫的な露出症」と診断されているという。
(ロイター) - 11月5日13時32分更新


ミーガン法というのが、アメリカにはあるらしいが、この法律も、ここでやられているようないわいる、犯罪歴の情報開示を積極的にコミュニティーにしていくというものだが、こんなの社会学的に見て、ベッカーのラベリング論をわざわざ持ち出すまでもなく、前科者の社会復帰が著しく阻害されるだろう。(これは自分が前科者だと思い込んで行為が変わってしまう再帰的な側面と、周りが実質的に雇用などをしないとする2つの側面においてそうだろう) こんな簡単なことわからないのかね…

ウェーバーの大学論

職業としての学問の外面的事情
ウェーバーのいるころのドイツのアカデミズムの人事の状況は、非常に国家主義的であった。ウェーバーは、このことをドイツの「私講師」 の制度とアメリカの「助手」の制度との対比で述べている。伝統的なドイツの「私講師」の場合の若い研究者の賃金形態というのは、その該当授業を聴講した学生の数によって決まってくる。それに対して、アメリカの「助手」 の制度だと、ある一定の賃金が大学の側から出て、聴講した学生の数は関係がない。そしてドイツの「私講師」の場合、授業を持たされる数がアメリカの「助手」に比べ異常に少ないのである。というのも、アメリカの「助手」というのは、給料をもらう身なのである。たとえばウェーバーによると、「助手」 であったとしても、週12時間の講義でドイツ語の初歩を教えているのだが、「私講師」の場合週3時間程度であると述べる。
そして、注目すべきは、このような制度の違いによってドイツ・アカデミズムにおける人事制度が非常に不平等なものになっているとウェーバーは述べている。彼は彼自身の経験によってそれを感じているのだが、問題はその制度にある。つまり、ドイツの「私講師」の場合において、それの人物を評価せしめるのは彼が受け持つ授業における聴講生の数である。そして、その聴講生というのは彼が研究者として優秀かそうでないかということを考えて聴講するというよりは、彼のカリスマ性や声の調子、あるいは外面的な事情でそれを決める。このような要素にウェーバーは私講師制の不平等を見る。それは以下のウェーバーの発言からも明らかであろう。
 聴講者が多いという非常な幸運とこれに対する評価とが、普通、すべてを決める標準となる。もしある講師が教師としてはだめだという評判をとったならば、たとえ彼が世界第一の学者であったとしても、多くの場合、それは大学に職を奉ずるものとしては死刑の宣告を受けたに等しい。要するに、ある人が教師としてすぐれているかどうかは、学生諸君からかたじけのうする出席数によってきまるのである。(Weber 1936 p.19)
 学問を職業とする心構え
 この時代において、もはや学問は専門化の時代にあり、何か学問上の仕事をしたという誇りを得るには自己の専門に閉じこもってのみ成しうる。「実際に価値ありかつ完璧の城に達しているような業績は、こんにちではみな専門家的になしとげられたものばかりである、それゆえ目隠しをつけることができない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったことのできない人はまず学問には縁遠い人である」(同 P.22)とウェーバーはいう。
 ウェーバーが、学問を職業とする者に対しての最大の心構えというのは、上述のような学問上の新しい発見だけに身を窶すのではなく、「仕事(ザッヘ)に仕えよ」ということである。それは常に、新しいテーマばかり扱っていないで純粋に学問にのみ専念し、時代の進歩によって自分のやっていることが古いものになったとしてもそれを受け入れるという倫理である。
 存在と当為の分離―学問と政策の区別―
ウェーバーは医療技術、法律学の例を挙げながら学問の限界についても論じている。医学においての、前提は命を少しでも長らえさせることにある。しかし、たとえば安楽死したい末期がんの患者がいたとしても、その患者というのは医師に対して、医学の前提がなぜそのようになっているのか?というような疑問を提示することは禁じられているのである。同様に法律でも、前提が存在する。たとえば、一般市民による「そもそも法律は必要かどうか」というような前提を問う疑問に対して法律学は答えることができない。そして、このことは自らの社会学にも適応させてウェーバーは考えている。社会科学の場合、その文化現象を努力して探求するに値するか?という前提を常にかかえていて、それを学問的に証明することは困難であるとウェーバーはいう。そして、このことから存在と当為をわける。つまり学問的にこういう事実がありそれを学生たちに施す場(つまり教壇)では自己の好みの政党や党派的な主張をしてはならない。つまり政策的提言は、学問を超えた部分であり、なんら学問的な証明ができることではないとウェーバーはいうのである。それは「何が存在するか」という理論的認識と「何をすべきかにかかわる実践的認識」を区別しなければならないということである。
 大まかに職業としての学問の内容を整理してみたが、このようなウェーバーの学問に対しての姿勢は、単に彼が現実から隔たったところから知識を吸収して得たわけではなく、講義、ゼミナール、書斎、さらには集会の中で彼の頭脳の中に美酒のように醸成されつづけた現実体験と、一瞬の出来事として不意に彼を襲った、しかも悩める彼の神経症をいためつけるような諸事件をひっかけにした論争、などの触媒にして作り上げられている。つまり、ウェーバーがその当時「何と戦っていたか?」ということを理解することは彼の学問論を考えるときに重要になってくる。彼の大学論を述べることはそういった学問論解明へのアプローチである。
 ドイツ・アカデミズムとは
19世紀の産業革命による急激な経済構造の変化によってドイツのアカデミズムは、政治権力の変質や市民に主体が与えられ、大衆社会の出現や文化環境の変化そして、それ以前までのフンボルトによる古典大学の理念と大学のあり方自体に変化を起こさせた。この変化というのは、大学の大衆化が、大学と古典的人文主義との連帯性を打ち破り、ラテン語はアカデミズムから消え去りフンボルト的な大学に過去のものになっていった。この時代、のドイツの大学教育は、資本主義経済の高度化への対応を迫られていた。つまり、古いフンボルト型の哲学を中心とした思索的学問から経験主義的・実証主義科学の大学へと変貌を迫られていた。医学・自然科学の分野における実験室・研究所・大学付属病院の設置に伴い大学管理人員も増大し、官僚制化がますます進んだ。このころ、研究者集団において私講師が増大し、官職としての教授職の地位が高まり、逆比例して私講師の地位は低下した。そんな中で、ドイツの大学史上有名な「アルトホフ体制」が現れた。このアルトホフという人物は、文教行政の責任者で大学のために国が自由に処分できる費用を大量に用意した。また、アルトホフは学部推薦については明確な立場をとった。彼は、「学者共和国」の考え方はもたず、大学へ派遣する教員の決定権は大学組織にはなくて、最終的には大臣に代表される国家ないし王位にあるのだという見解であった。アルトホフは、人材を抜擢するために徹底した彼の経営哲学を発揮した。それはどういった手法かというと、まず第一級の学識者の情報を必要として、多くの方法で口頭や書面による質問で人材を探知し、その性格まで調べ上げ、若い官僚をつかってベルリン大学やそれ以外の大学の講義を受けさせ、教授素質を報告させている。以上、アルトホフという人物は、この当時のドイツの大学人事に関して決定的な力をもっていた。
 この、アルトホフとウェーバーの間に確執があった。それは、1983年に私講師であったウェーバーがアルトホフとエックからベルリン大学の商法の担当員外教授に採用する話を聞いてから、94年にフライブルグの国民経済学に正教授の地位が決定するまでの1年間のドラマである。ウェーバーにとってアルトホフのこの員外教授の抜擢は不純な動機によるものであまり好ましいものではなかった。フライブルグの国民経済学の正教授に採用されたときもアルトホフの暗躍があり確執があった。このように、ウェーバーの官僚制のアイディアの背景にはこのようなアカデミズム内におけるウェーバー自身の人事問題も深く関わっているのである。
 大学の官僚制とウェーバーの思想
 ウェーバーは、「官僚制」「官僚制化」ということをどう考えていたのだろうか。「専門化」と捉えているが、その意味は「職業としての学問」と「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」と違っている。この2つの著書において「専門化」の意味の共通点は官僚制され、専門化されていく現代の管理社会の中で否応なく、「職業人」、「専門人」たらざるをえなくなる状況ペシミスティック見据えている点である。そして相違点は、「職業としての学問」において「ザッヘに使える」いいかえるなら「専門人」として生きる積極的な心構えをとく点で大きな落差が感じられる。
 「職業としての学問」において、なぜ彼が「専門化」への沈潜と「事象(ザッヘ)に生きる」ことによって「日々の要求」に従うことをすすめる方向をとったのか。これにおいて、2つの理由が考えられる。一つ目として「職業としての学問」は大学という知識人社会を前提としている。二つ目として、若い知識人世代を対象にしていることである。
「教職の自由」と「価値自由」
 ウェーバーは、自由競争の原理を比較的優位にしていたので、古い「教職の自由」はそのような競争原理を失う危険があると考えていた。古い「教職の自由」とはどのようなことかというと以下の3つの特徴をもっている。1、講壇への就任にさいしては政府や教会への服従について吟味することは已むを得ない。2、大学外での公的発言は職を危うくすることがありうる。大学人は官吏であるから政治的発言はこのましくない。3、その代わり大学の講壇での発言について自由がある。というようなものがウェーバーが批判した古い3つの「教職の自由」 である。
 これに対して、ウェーバーのいう真の「教養の自由」とは前述の古い「教養の自由」とまったく逆の関係である。それは以下の3つの特徴をもっている。1、講壇への就任許可にあたっては一切の信条による差別はない。2、大学外の公共の場では政治的活動によって職を危うくすることはない。3、その代わりに講壇での発言の価値の自制(講壇禁欲)がなされなければならない。ウェーバーはこのような、主張によっていわいる(古い)「教職の自由」と「真の教職の自由」を明確に区別している。そして、ウェーバーのいう「教職の自由」 とは諸学説の平和的共存ではない。
 このような、学説の「平和的共存」に関して、その背景となったエピソードがある。それはウェーバーと交流を結んでいた若い社会学者のミヘルスのドイツの学会からの締め出しである。ミヘルスはある政党に所属していて、そのことが原因で学会から排除されたのであるが、この事実がウェーバーの「教職の自由」の概念構成の中で深く関連をもっていたことを見出すことが我々には可能であろう。
 事実認識と価値判断の峻別
ウェーバーの学問論においてもっとも重要なのは「価値自由」という判断であろう。この「価値自由」とは
 「あらゆる経験的知識の客観妥当性は、与えられた現実が、ある特殊な意味で主観的なところの、即ち我々の認識の前提を表示するところの、また経験的知識のみが与え得る真価の価値を必ず前提するところの諸範疇に従って整序されるという事実に、またこの事実に基づいている」(weber 1952 P.105)である。つまり、どこからどこまでが事実であるかを自覚し、事実認識以上の価値を導くことができないことを理解した態度がこの「価値自由」の態度なのである。
 さて、学問論に即して考えると彼がこの「価値自由」という概念で誰と戦っていたかという問題を考えなければならないだろう。具体的にはいうと、ウェーバーはこの時代の自然科学者の生み出してくる文化についての科学に立ち向かったのである。具体的にいうと、この当時のドイツにオストワルトという科学者がいた。彼はエネルギー文化理論というエネルギー保存の法則を社会科学にまで拡大して適応する理論で当時、流行の理論であった。もちろん、オストワルトだけではなく、フロイト、ブレーツ、シュペングラーなどの想像力に満ちた理論に厳しい批判をした。ウェーバーはそれらの背後に潜む世界観のヴェールをはぐことによって、科学の世界観の隠微な野合にその目を向けたのである。しかし、ウェーバーは科学者による文化や人間に与える影響をまったく無意味なものであるとしたわけではない。彼は、今現在の科学では正確に把握できないが、遺伝的要素については、その将来の専門的学科によってその因果の連続性を期待していたのである。
 彼が「価値自由」を標榜していた理由は実はもう一つある。それは、オストワルトやフロイトのような一元論に対する対抗以上にこの時代オカルトが流行したという背景がある。ウェーバーは、古い歴史科学を克服して経験科学をつくる過程で、ロマンティークに立ち向かった。これは戦争体験に酔いしれる若者への世代への戦いであった。本来、経験科学と関係のないはずの「体験」が「1914年の理念」の高まり以降、流行語となり、知識人の心情をとらえるようになる。彼の「価値自由」は同時に若者たちから見放されようとしていた。彼のこのような主張は孤独な挑戦でもあった。すでに彼の「価値自由」の主張は、価値判断論争の場となった社会政策学会だけではなく、彼みずから共同設立者となった社会学会でも貫徹できず脱会している。
 このような、彼のこのような警告は、この当時だけではなく現代にも言えることだと思う。むしろ現代において科学による人間の自然に対しての統制はできないことが暴露されている。このような時代においてはウェーバーの生きていたドイツと同じようにオカルトや一元論的な議論が蔓延している。彼が当時のドイツの思想状況と戦ったように現代の社会学者もこのような「価値自由」という学問の精神を絶えず訴えていかなくてはならないだろう。


【参考文献】
上山安敏 1978『ウェーバーとその社会──知識社会と権力』ミネルヴァ書房
上山安敏 1979『ウェーバーの大学論』木鐸社
マックス・ウェーバー著・尾高邦雄訳1936『職業としての学問』岩波文庫
マックス・ウェーバー著・永祐治、立野保男1952『社会科学方法論』岩波文庫

マンハイムの生い立ちと「イデオロギーとユートピア」概観

1. マンハイムの生い立ちについて
カール・マンハイム(1983-1947)は、1893年3月27日ユダヤハンガリー人の織物商人であるグスターヴ・マンハイムを父に、ドイツ系ユダヤ人の母ローザ・エルレンブルクを母に、オーストリアハンガリー二重帝国下のハンガリーの首都ブダペストの繁華街サシュ通りで生まれた。彼には7歳下の弟がいたが、その弟は13歳の時、心臓病で亡くなっている。マンハイム自身も弟の死と同じぐらいの時期に軽い心臓発作になっている。彼は53歳で人生に終止符をうつのだが、最後も持病であるこの心臓発作が原因であった。ハンガリーは、後進地であったが、次第に産業化と都市化の波が押し寄せ、ブダペストには文化的・社会的変動の兆しが見え始めた時代であった。1911年にギムナジウムを卒業したマンハイムは、哲学を志してブダペスト大学に進学することになる。大学では、カントを中心とした認識論や倫理学の研究に没頭し、1913年からドイツに留学し、フライブルクハイデルベルク、ベルリンの各大学を転々としながらG.ジンメル、E.カッシーラー、トレルチたちの講義を聴講し、また1914年には一時期パリへと足を伸ばして、H.ベルクソンの講義にも出席しながら自らの研究の土台を築いていった。だが、そうした彼の留学生活は、第一次世界大戦の勃発によって中断を余儀なくされた。1915年、ブダペストに帰った彼は兵役免除の特典を得て研究を続けながら、大学入学直前から知遇を得ていたG.ルカーチを中心としたハンガリーの文化革命に燃える若き知識人たちの集まりに参加していた。この集まりが、1915年秋から毎週日曜日、B,バラージュの私邸で、開かれていた「日曜サークル」である。G.ルカーチとは大学入学前の1910年頃から、マンハイムルカーチに手紙を送り、自分の書いた「神秘主義者について」という小論についての意見を求めるなどアドバイスを受けていた。1916年からはハンガリー哲学会の学会誌にE.カッシーラー、E.ブロッホらの書物の書評を書くようになっている。そして、1918年11月には博士論文「認識論の構造分析」により哲学の学位を取得する。この論文は、1922年、ドイツへの亡命後、増補・翻訳されて雑誌「カント研究」にも掲載される。
2. イデオロギーユートピアが書かれた背景
 マンハイムがその主著の一つである、『イデオロギーユートピア』 (1929)を執筆したのはいわゆる相対的安定の時期(ワイマール期)にあたり、1928年の国会選挙では、国家社会主義ドイツ党(ナチス)は14から12へと議席数を減らしており(議員総数は491)むしろ連合政権の核となる各派が基本的で不安定であるものの、あやうい均衡をたもちつつ対立しあうという状況にあった。ワイマール期のドイツの知識社会学の特質を理解するときには、これを培ってきた伝統だけでなく、時代性をもつものである。それは、ワイマール期ドイツの一瞬の安定期にこの「イデオロギーユートピア」が書かれたことにも現れている。マンハイム知識社会学で宗教という物語が終わった後の知識人の社会統制を認めながらもそれを批判した。それは以下からもわかる。
「伝統や教会の力を後ろ盾にしていたこれまでの創造伝説にかわって、世界の形成という考え方、それも世界を構成する各部分は知的制御に従うものだという考え方が台頭してきた〜省略〜認識行為に対して主観が果たす役割や意義という観念、および人間の知識一般の真理価値という観念をもてるようになれるという期待が生まれた。だが実際には、主観を通じてのこのまわり道が、他にもっとよい方法がないためにやむなくとられた代用案であり、一時しのぎの策にすぎないことを人々はよく知っていた。〜省略〜しかしまさに、過去において失敗してきたのはこの種の思考方法だった。」(マンハイム 1971 P113 一部改変・省略)
3. イデオロギーユートピア概要
 『イデオロギーユートピア』 において、マンハイムはこのような当時台頭しつつあった、歴史性を否定するファシズムや、一つの真理が措定できなくなり絶えざる自己欺瞞に陥っている哲学者といった状況から生まれてきた。新明正道も指摘しているように、マンハイム知識社会学の中で本格的にイデオロギー概念を全面的に問題とし、彼自身の立場を明確にしたのは『イデオロギーユートピア』においてであった。これ以後、マンハイムはフィーアカント編の『社会学辞典』に論文「知識社会学」をよせ、再検討をしたが、その根本的な立場はすでに『イデオロギーユートピア』のなかで一応確立されていたと見てよい。(新明 1958 P3)
 『イデオロギーユートピア』は三部構成の論文である。第一論文『イデオロギーユートピア』第二論文『政治学は科学として成り立ちうるか』第三論文『ユートピア的意識』 である。第一論文において、マンハイムは全体的・部分的、普遍的・特殊的、価値自由と評価的というイデオロギー概念の分類を導入する。この論文においては、イデオロギーに対しての見方の上で生じてきている変化の検討であり、第二論文においては、、全体的・普遍的・価値自由なイデオロギー概念を用いて政治学があらゆる思考に内在しているイデオロギー的性格という事態に直面して、どのように科学として可能性を見出していくのか、というような問題を考察している。第三論文では、われわれの思考や体験の中に入り込んでいるユートピア的要素の分析である。マンハイムでいうユートピアとは存在を超越した思考であり非現実的なものである。そしてそのようなユートピアを歴史上どのような形態で現れたのかということを詳細に記述している。
 第一論文において、マンハイムがいうような「部分的イデオロギー」とは他者の言説の一部分についてそこに含まれている意識的、あるいは無意識的な虚偽や隠蔽といったものを利害心理学的な地平で暴露する立場である。「全体的イデオロギー」 は他者の言説の全体について、その背後にある思考・意識の構造を社会学的地平で解明する立場である。そして、次にマンハイムはこの「全体的イデオロギー」を「特殊的イデオロギー」と「普遍的イデオロギー」に区別する。
 「特殊的イデオロギー」は他者の言説の存在拘束性のみを問題とする立場であり、たとえばマルクス主義などの立場がこれに該当する。一方、「普遍的イデオロギー」は自らの言説をも含めたあらゆる言説の存在拘束性を承認する立場であり、知識社会学の立場がこれに該当するとされる。つまり、知識社会学とは全体的で普遍的かつ評価自由なイデオロギーの立場をとるものである。このような、知識社会学の立場により第二論文で考察されている、官僚主義保守主義保守主義的歴史主義、自由主義、民主主義、社会主義共産主義、そしてファシズムなどの政治的潮流の思考の存在拘束性が暴露されていく。

精神世界と心理学の技法

 現代、日本において「精神世界」に関与する、あるいは興味関心を抱くものが増えている。日本において、「精神世界」という語がさかんに用いられるようになるのは1970年代の末頃のことであり、それはまさに近代的な理性による啓蒙主義的な教養が衰退していった時期でもあると島薗進は論じている。島薗によれば、「精神世界」の中心的なテーマは「 自分が変われる」という希望が生まれ、そしてそれは自分だけが変わることではなく、人類と地球が変わっていくプロセスに参加することだと感じられ、この「自己変容」にこそ、宗教とは違う側面があるといわれる。精神世界は宗教の教団のように固定した教義を掲かげたり、教団の組織で個々人を束縛したりはしない。むしろ、「精神世界」に関わる者は教祖への服従を求めたりする新宗教を古い時代の遺物として退けるのが普通である。
 欧米では、このような「精神世界」に対応する現象として欧米では「ニューエイジ」(New Age)とよばれることが多い。この「ニューエイジ」 にかわる学術用語として「新霊性運動」という用語がある。この「新霊性運動」はアメリカの「ニューエイジとその周辺」や日本の「精神世界」、そして世界各地の類似の現象を包み込むきわめて広い広範の現象を指す概念である。島薗はこの、「新霊性運動」という語によって、現代の世界の精神状況の重要な局面を明らかにできると考え、この「新霊性運動」を単に形而上学的でネガティブなものだと捉えず、現代の官僚制的社会の欠点や公共善の意義を自覚させる積極的な機能を見出している。
 このような、島薗の「新霊性運動」の捉え方の一つの要素に、心理学の技法に関することが挙げられる。「新霊性運動」の具体的な領域に超心理学(たとえば、トランスパーソナル心理学など)がある。しかし、ここで注目したいのは、心理学的技法のルーツには「原始治療」というものがあり、それがフロイトの「新力動精神医学」の成立につながっているという点、そしてそれは、「精神世界」だけでなく主流文化にも浸透し、個人主義を強めるものとして作用しているという点である。
 マッキンタイアも指摘しているように、脱道徳的人間が広がっていく背景には、官僚制的社会構造の確立がある。官僚制的な文脈では、人は計測できる経済目的・福祉目的の効率のよい達成のための手段として遇される場面が増大する。たとえば、経営管理者的な役割が官僚制的な現代では適切なものとしてみなされるが、その一方で経営管理者が活躍する社会では、他方「セラピスト」のキャラクターが活躍する場面を増大するという。
 このような、「セラピスト」的な役割が増えてくると、アリストテレスのいうような友愛による善に対しての志向性が消えてしまうからである。そこには、他者との関係が全て、自己充足的な私的手段に還元されうる。しかし、セラピー的な態度は同時に、開かれた他者との関係を提示しうる。このことは、「道徳の衰退」に貢献するのではなくて、新しい開かれた道徳性な合意を形成できる可能性をも含んでいるものである。